活動内容

会員からのメッセージ

放射線治療と出会って、今感じること。(201X年卒、大学病院勤務)

私が多くの放射線治療医と違うのは、放射線治療科を意識するのが大変遅かったことや職業として見て選んだことだと思います。

私は学生の頃は放射線治療には全く興味がなく、大変失礼な話ですが実習内容もほとんど覚えていないほどです。

連日の長時間勤務で疲弊していた初期研修2年目の夏、画像診断科のおまけで3日間だけ放射線治療科をローテートしたのが出会いになります。「こんなにすごい科があるなんて…なんで誰も教えてくれなかったんだ!」と衝撃を受けたのです。自分の求める働き方がそこにはあり、そして清潔な空間で活躍する女医の姿は非常にかっこよく見えました。この3日で私は進路を放射線治療科に変えることになります。

学生の頃は内科や外科といったいわゆるメジャー科の勉強に時間を取られていて、将来の選択肢もまずメジャー科から考えており、非常に視野の狭い学生・研修医だったと思います。

放射線治療医として働いてきて今思うことは、やはりこの科を選んで正解だったな、あの時放射線治療科に出会えて良かったな、です。子ども2人を産みましたが、放射線治療科は外来診療や治療計画が仕事の中心ですので、多少ブレーキをかけながらでもキャリアを続けることができます。また、放射線腫瘍学は勉強するほど面白い分野ですし、患者さんに治療効果がみられると大変やりがいを感じられます。放射線治療医の複数いる勤務先では、治療方針や治療計画は必ずカンファレンスでチェック・承認を受けることも、私のような小心者にはストレスの少ない環境でした。夫の転勤などもありこれまで医局も異なる3県で働いてきましたが、どの勤務先でも暖かく受け入れてもらい、一人の放射線治療医として大切に育てていただいたおかげで今日の自分があります。

私のように働き始めてから放射線治療科を見てみると魅力的に見えることもありますので、進路を悩まれている研修医の方はぜひ一度見学にいらしてみてください。

「子供が最初からいながら第一線で活躍できる放射線腫瘍医」(200X年卒、大学勤務)

学生の時に考えていたライフプランは、若いうちはバリバリ頑張って、ある程度できるようになったら子供を持ち、そこからは専門性を活かした仕事を継続する、というものでした。しかし、研修医2年目の春に妊娠し、そこで初めて医師という職業が、そして日本の社会が、如何に子持ち女性に厳しいか、ということに気がつき、自分のライフプランを見直さざるを得なくなりました。医師として働き続けるために、最初に考えたのが、まず、緊急呼び出しが無い科、という条件でした。そうすると、「主治医」として患者さんを持たない科か「緊急」が無い科、の二択になり、緊急が無い科、となるとかなり臓器が絞られることから、「主治医」として持たないながらも全身が診られる放射線科(当初は診断を考えていましたが)に入局することにしました。その時点では、少し後向きな選択をしたのですが、この選択が自分の人生において最大のラッキーヒットだったと今は思います。放射線科に入局し、診断もそれなりに面白さもありましたが、全く患者さんと触れ合うことが無い時間を過ごす中で、「やっぱり患者さんを診たい」という気持ちが大きくなり、最終的に放射線腫瘍医になりました。放射線腫瘍科は患者さんを診ることができ、根治治療から緩和治療まで全人的に診ることができ、尚且つ緊急呼び出しがない、という自分にとって理想的な科でした。それでも、子供が小さい時は大変でした。緊急呼び出しこそ無くとも、覚えることは多く、勉強したくてもする時間が無い。あの時ほど、学生の時の有り余っていた時間を返して欲しいと思ったことはありません。しかし、ある程度自分で動けるようになると、「時間のやりくり」をしやすい科なので、周りに恵まれたことはもちろんですが、常勤として働き続けることができました。今、子供が大きくなり、ほとんど手がかからなくなってきたので、寂しさを埋めるように働きまくっている気がしますが、放射線腫瘍医になって10年以上、毎日新しいことに出会っています。これほど刺激的で楽しい科は他にないのではないか、と思っています。私自身は流れに身を任せていたら今に至った、というような感じではありますが、自分の辿った道全てが糧となり、JAWROでの出会いも含め、出会った人全てが今の私を作ってくれていると思います。私がどの科にしようか迷っていた時に大先輩にかけていただいた言葉があります。「どの道を選ぶかではなく、選んだ道をどう歩むかが大切。どの道を選んでもきっと楽しい」今、どの道に進もうか悩みながら、この文章を読んでくださっている方、長い人生の道のどこかでお会いできますこと、楽しみにしています。

「女性放射線腫瘍医として10年(ちょっと)たって」(200X年卒、公立病院勤務)

研修医当初は、がん診療に興味がありながら放射線治療科についてほとんど知識がなく、内科医を志していました。将来の出産育児希望もあり、激務のがん診療を“最前線で”続けていけるか不安に思っていた時、放射線治療科長から、「うちはどう?」と声をかけていただきました。すべての臓器を診たい自分の希望に近く、「キャリアの継続がしやすい」という言葉も決め手となりました。どうせなら、とハードな研修先を希望したことで、一時は深夜まで仕事の生活となり、「これなら内科や外科とも変わらないのでは・・・?」と思うこともありましたが、その後出産して働く中で、放射線腫瘍医という働き方の利点を実感しました。子供の対応を要する際に「一時中断が可能」で「後で自分の仕事をリカバーできる」「患者に直接携わる臨床医」は珍しいと感じます。育児中も、臨床の最前線にいられないくやしい思いをすることが少ないように思います。
 

実は、私は現在、主には緩和ケア医として働き、週1回程度を放射線治療業務に関わっています。放射線腫瘍医は幅広い臓器の根治から緩和まで精通でき、緩和ケア医としても有用な業種です。若い先生が放射線腫瘍医を選択するときにはその専門性の高さが迷いになるかも(内科のほうが「つぶし」がきくかな?という迷いは、あるあるですね)しれませんが、医師の生き方はその入り口で考えるより幅広いです。私のような人間もいることが、キャリアパスのひとつとして少し心強く感じていただけたらと思い、自分が入局前に悩んで何度も読んだこのHPに寄稿をいたしました。
 

余談ですが、もしここを若い先生が読んで下さっていたら、女性放射線腫瘍医の会への参加もお薦めしたいです。全国の先生方とお話しできる機会がある、楽しく有難い場所です。すごい先生が多いので気おくれしちゃうかもしれませんが、私のような一臨床医にも多くの学びと刺激を与えていただいています。なにより、女性がキャリアを積む姿を間近で見られることは、安心して医師を続けていく活力になると感じています。多くの先生と直接お目にかかる機会があることを楽しみにしております。

「志望科を決めたきっかけ」 (200X年卒、大学病院勤務)

大学病院で医学生相手の実習をしながら、なぜ放射線腫瘍医を専門にしたのか思い返してみました。

 

きっかけは6年生の1ヵ月の長期実習先を選ぶ際、放射線治療は全く講義で聞いた覚えがないので、実習で見てみようと選んだことでした。当時は志望科も決まらずモラトリアム最中の頃でした。実習内容は指導下での治療計画作成や、診察を見学するというものでした。実習希望者が珍しかったこともあり、かなりやさしく対応して頂いていました。ある日の放射線科外来で、教授診察の見学をした時に運命を決める出来事がありました。当時のS教授による患者さんへのI.C. がほれぼれする上手さだったのです。放射線治療とはどんな治療か、何を目的にするか、どういう副作用が起きるかなど至極当然な内容だったのかもしれませんが、すべての内容が知識不足の学生でも自然にすらすらと理解できる説明だったのです。こんな診察ができる医者になりたい、もはや放射線腫瘍医になるしかない、と決断しました。

 

しかしながら出身大学の医局に入ることは無く、地元近くの地方で放射線治療医になりました。後に学会で出身大学放射線科の先生と再会した際に、「どこであっても放射線腫瘍医になってくれて私は嬉しい」と言ってくださったときは、母校を捨てた後ろめたさが取り払われました。かくも人格者でありたいと思いながら、本日も目の前にある仕事で手一杯でございます。

 

後進の人材確保が思うようにままならぬ現状において、自身の経験も思い出しながら学生へのアプローチをいかに行えばよいかまだまだ暗中模索です。

「転勤とキャリア」(199X年卒・公立病院勤務)

私のキャリアにおいて大きな影響を与えたことの1つは、転勤のある会社員と結婚し海外を含めて4回の転勤を経験したことです。幸い、海外転勤以外では放射線腫瘍医としてのキャリアを継続することができました。国内でリニアックを有する施設は限られますが、結果的に、就職先に困ったことも、異動先の選択肢に迷ったこともありませんでした。
 

しかし、転勤というイベントにより1つの施設で一貫した仕事をすることは難しく、異動するたびに、それまで築いてきた生活基盤や人間関係がふりだしに戻るのは大変な面もあります。上司・同僚や、関わってきた臨床試験、患者さんを残して去ることは申し訳なく残念な気持ちもありましたが、家庭あってこその仕事であり、単身赴任をすることは考えられませんでした。
 

医局人事で他県に異動される先生も多いと思いますが、まったく縁のなかった地域をハシゴして放射線治療に携わる機会が何度もある人は多くないと思います。「ところ変わっても同じもの」や、「ところ変われば違うこと」など、様々な経験や人脈すべてが私にとって貴重な糧となっています。人生は一度しかありませんから、未知の世界に好奇心をもって足を踏み入れる気持ちで、毎回、新しい出会いを楽しんでいます。これからも、どこへ行っても自分の好きな放射線治療に携われる幸運と縁に感謝しながらこの仕事を続けていきたいと思います。

「院内病児保育室の立ち上げ」(198X年卒、国立病院勤務)

私は、当院に就職させて頂いてから、3年目の2017年4月にワーク・ライフ・バランス部 部長を拝命致しました。ワーク・ライフ・バランス部は、2015年夏に、国が女性医師支援懇談会を立ち上げたことがきっかけで前院長から提案があり、2015年12月に女性医師支援部として設置されました。その後、支援の対象は女性のみでなく、男性や職場全体である事が認識され、2018年4月より名称がワーク・ライフ・バランス部に変更されました。委員会の構成員は、全職員のニーズを把握するために医師・事務員のみでなく、各部署から推薦された看護師2名を含む12名となりました(2018年9月)。現在、病院内全職員がワークライフバランスをとれる環境を目指して、会議で問題点を話し合い、病院に要望しています。また、院内保育園は当院に隣接しており、業務委託契約した企業が運営しています。ワークライフバランス部は、保護者である当院職員の要望を当院から委託業者に提出して問題点を適宜解決しています。

アンケート調査

我々は活動内容の検討の足がかりとする目的で、医師全体に、育児・介護・ワークライフバランスに関するアンケート調査を行いました。その結果と委員会での検討内容は①病児保育施設の設置、②当直・オンコール制の免除、③男性職員が育児休業を取りやすい環境の整備、④子供が小さい時は転勤の融通を利かせて欲しい、⑤子供が小学生になっても利用できる制度(時短勤務や休暇等々)、⑥子供が下校後に、一時的に預けられる場所(学童保育)の確保、⑦介護休暇、看護休暇の延長、介護時短のような制度、⑧責任ある仕事をしていても休みやすいような体制づくり、⑨子の有無にかかわらない、医師全体へのサポート、女性医師間の不公平感の改善、⑩周囲の医師、上司の意識改革、⑪複数担当医制、医師の確保、等でした。委員会で検討した結果、医師の確保は自分達では難しいので、まず、最も要望の多かった病児保育室設立を目指しました。今回、設立についてお話し致します。皆様のご参考になりましたら幸いです。 

病児保育室の開設時期と経緯

 2019年11月30日より開設致しました。運営費用は、病院が支出し、病児保育室利用料金は病児一人当たり1日2000円です。これは市内の他の保育所と同額です。

 

開設に当たって、まず、小児科医の協力を得ました。開設場所は、元病棟であった場所で、大部屋(4床分)を2部屋使用しています。部屋には、ベッド1つ、食事用の小テーブル、子供用のイス等があり、床は、パイルのマットを敷き詰めています。トイレ、洗面台は小児用に足台等を設置し、部屋の出入り口には柵を設置しました。病室であった所なので、酸素吸入は可能です。また、病児の容体が急変したときには速やかに小児科医と連絡をとり、ベッドで外来に搬送します。委員会で毎月協議を重ね、他施設を見学し、当施設の運用規則を作成しました。2名の病児を院内の保育士と看護師の2名の職員で別々の2部屋で1対1で保育することとし、保険加入を済ませました。
以下に、規約の一部を紹介致します。

 

「病児の対象は職員の子供で生後2ヶ月から中学校就学前まで、保育時間は平日9時から17時までです。利用には前日15時までの利用登録が必要です。なお、利用可能日の詳細は電子カルテ掲示板で確認して下さい。」

 

実際の病児保育室利用手順ですが、前日夜中に子供が発熱した場合、病院の事務当直者に電話して、病児保育利用を予約します。予約は2名までで、3名以降は待機であること(すなわち当日キャンセルが出たら連絡する)を伝えます。朝8時半にその日の病児保育当番の小児科医の診察を受けて、病児保育可能と判断されると、保護者が、お迎えにきた保育者と一緒に保育室に連れて行きます。保育者は保護者より必要事項を聴取し、保護者は9時過ぎには職場に行くことが出来ます。薬の処方があった場合は、院内で処方され、後ほど保育室に届きます。子供が午前中に発熱した場合、15時までは保育室に空きが有れば受け付けます。食事は、アレルギー食等の問題を個別に対応することが出来ないため、保護者が持参します。病児保育の利用がない時は、保育士は小児科病棟キッズルームでの保育、看護師は外来処置室での採血業務等に従事します。2019年12月〜2020年1月までに、3名の病児の利用があり、保護者達は全員、病児保育室が利用できた事に満足していました。

 

その後、COVID-19感染症の影響を受け、病児保育室は現在休眠状態です。院内や近隣に適当な場所があれば、いつでも運用再開可能なのですが、今のところなく、じっと再開できる時期を待っております。

 

今後、ワークライフバランス部は、上記の②—⑪等の要望事項に対して、引き続き改善策を考えていく予定です。

「放射線腫瘍学を選んだきっかけ」(199X年卒・公立病院勤務)

 私が放射線腫瘍学を志した最初のきっかけは、高校3年の夏に、米国の高校生科学プログラムに参加したことです。米国各州とG7国からの参加者が、ニューヨークのブルックヘブン国立研究所に約1ヶ月滞在し間寝食を共にしながら放射線について勉強しました。今思えば、田舎育ちで飛行機に乗ったこともない私が、よく単身で無事に帰ってこられたと思いますが、それゆえに、そこで経験したことや出会った人々は、私の人生を大きく変えました。 もともと叔父をがんで亡くしたことがきっかけで医学部を志していたため、シンクロトロン加速器のあるその研究所で知った“切らずにがん治療する放射線治療”に大きな魅力を感じました。また、現地で出会った日本人女性研究者からは、私の最初の“働く理系女子ロールモデル”として強い衝撃を受けました。

医学部入学後は色々な科に興味を持ちましたが、進路を考えたとき、やはり放射線治療への興味は捨てきれず、新潟でのJASTROの夏季セミナーに友人と一緒に参加してみました。その懇親会で、ご高名な先生方が皆さんで仲良くお酒を交えて歓談されているお姿を拝見し、全国のJASTROの先生方が顔の見える関係で学会活動をされていることに親近感を覚えました。運や縁に助けられながら今に至りますが、この分野を選んで良かったと心から思います。高校生の頃から放射線治療を志すケースはやや特殊かもしれませんが、どんな分野にせよ、若い人にとって大事なのは様々なチャンス、出会いであることを実体験で痛感しており、医学に興味のある中高生に出会うと、若い頃を思い出しながら声をかけています。